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ら抜き言葉は本当に間違っている?

 こんにちは。委員会の集まりが対面で出来るようになって楽しみにしているチューターです。皆さんの中には先生の言っている授業の内容をそのまま信じてしまう人もいると思います。わざと嘘を教えるような先生はいないと思いますが、間違えてしまうことはあると思います。また、地理などでは情勢が変化して昔の情報が使えないという事態も発生します。理系科目だと先生が遠回りして問題を解いているなんてこともあるかもしれません。ですので授業中に先生が言っていたからといって信じ込むのではなく、一度は自分で調べるなり考えるなりすることが重要になってきます。そこで今回は未だに賛否両論ある一つの話を私なりの考えでしようかと思います。高齢者などは否定派が多いのかなとも思う話題です。勉強とは直接関係はありませんが、目上の人に言われたことに対して考えてみるという姿勢を知ってもらえたらと思います。


 皆さんは「ら抜き言葉」というものをご存知でしょうか。例えば「食べられる」を「食べれる」と表現したりする言葉を指します。現在ではら抜き言葉の使用率は半分を越え、かなり国民にも浸透し始めています。しかしこの言葉、大人の方の中では否定的な人もいるのです。「正しい日本語も使えないのか」と怒られてしまったりします。そこで、ら抜き言葉は本当に間違った日本語であるのかを考えてみたいと思います。ここから先は私の支持している考え方の紹介ですのでこれに反対の人もいるかもしれないということをあらかじめ伝えておきます。


 まず「ら」を抜く前と抜いた後の言葉の意味について考えてみたいと思います。「食べられる」には現代において、可能、受身、尊敬の意味があり、文脈に合わせて意味を使い分けています。一方「食べれる」には可能の意味しか存在せず、文脈から推測せずとも可能の意味を表していることが分かります。つまり一部の人は、文字数を減らして一つの意味しか持たない単語にすることを間違った日本語といっているのです。ではこの事象をほかの動詞で考えてみます。


 「書く」という動詞の受身、尊敬の形は「書かれる」です。また、可能の形は「書ける」です。この単語は受身、尊敬の形と可能の形を別のものとしていて、可能の形のほうが文字数が少ないです。また、「話す」という動詞にも「話される」と「話せる」があり、同様のことが言えます。では「食べる」も同様に言うことは出来ないのでしょうか。


 日本語の研究者の中には「ら抜き言葉は厳密にはar抜き言葉である」と主張している人がいます。確かに「食べられる」は「taberareru」となるので、arを抜くと「taber eru」となり「食べれる」と読むことが出来ます。ではほかの動詞ではどうでしょうか。例えば「書かれる」は「kakareru」なのでarを抜くと「kak eru」となり「書ける」と読めます。また「話される」は「hanasareru」なので「hanas eru」となり「話せる」と読めます。ここで一つの可能性が浮上します。「食べれる」も「書ける」や「話せる」と原理的に同じなのではないかと。そうです。実は原理的には同じなんです。そしてそのことを説明するために「ar抜き言葉」という表現をしたのです。現在はこの考え方が優勢です。


 もちろんこれに反対する人もいて、それなりの根拠を挙げている人もいます。例えば、古文で助動詞「る」が着く動詞と「らる」が着く動詞が存在するのと同じ原理だといったものです。またビジネスの場ではまだら抜き言葉は浸透していないのも事実です。しかし皆さんの身の回りの人はここまで知ってて「ら抜き言葉を使うな」と発言しているのでしょうか。そのような人は少数派だと思います。


 いかがでしたか?私自身はら抜き言葉肯定派ですのでこの立場から説明しましたが、調べた結果否定派になったとしても問題はありません。先生などの目上の人から言われたことについて自分でも考えてみるということが重要なのです。先生などに「ら抜き言葉は間違った日本語だからな」といわれて「へ~」で済ますのではなく、そこに疑問を抱くことや自分なりの考えを持つことが重要なのです。



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